早いもので、2011年3月11日に発生した東日本大震災からもう13年も経ってしまった。私は2004年生まれなので、地震が起きてからの生きている年数のほうが2倍ほど長いことになる。
なぜ急にこの話題を出したのかというと、マレーシアの大学の授業中に東日本大震災での福島原発事故が話題になったからだ。チェルノブイリ原発事故の話と合わせて、そんなことがあったよね~と先生が話をしていた。
3.11について振り返ってみると私は当時幼稚園の年長さんだった。
私の街は直接的な被害はそこまで大きくなかったものの、個人的に色々東日本大震災による間接的な被害を受けて今の自分があり、これは良くも悪くも割と人生を構成しているキーイベントなのだ。
そのため、その当時の記憶と今の自分の立ち位置にどういう関係があるのかを少しメモしておこうと思い、記事を書くことにした。少々長くなってしまったが、何も被害を風化させないための記事などといった大層なものではなく、ただの自分語りみたいな感じで書いただけなのでそこはご容赦願いたい。
震災当時の記憶
先述の通り私は年長さんであった。千葉県の東京に近い場所に住んでいて、まあまあ都会だった。
私の生まれは神奈川県の川崎市で、そこで3歳くらいまで過ごした後に千葉に引っ越したそうだ。川崎市での暮らしのことは全く覚えておらず、物心ついたときから千葉の記憶しかない。
3.11の発生当時(14時46分頃)は幼稚園の遊ぶ時間だったらしく、私は外にあるジャングルジムに登って遊んでいたそうだ。千葉県もまあまあ揺れたため、地震が起きてすぐに幼稚園の先生が園児を集めて、保護者が来るのを待った。
母曰くジャングルジムから落ちそうになっているところを先生が助けてくれたのだという。私としては滑り台で遊んでいた記憶があるのだが、まあそこはどうでもいい。
母が幼稚園に迎えに来た時にとても安心した顔をしたのを覚えている。この時、既に母が放射能が何とかなどと言っていた記憶がある(後で出てくる)。
家に帰ると父がカップ麺の食料品を買い貯めて保管していた。突然の震災だったために先が読めず、食糧の危機が起こるぞ的なことが街で言われていたのかもしれない。
といいつつ、実は地震で揺れたこと自体の記憶はない。ネットで調べてみると、液状化や停電なども起こっていて大変だったのだと分かった。
これ以上のことは覚えていない。当時の私は地震災害が起こったとは知らず、なんかこれから非日常なイベントが起こるんだ!程度にしか思っていなかった。
放射能の影響と、友人との別れ
放射能からの避難
そういうわけで東北で津波が来た街などと違って、千葉県の私のいた場所はそこまで壊滅的な被害を受けたわけではなかった。ディズニーランドの辺りだと液状化現象なども起こっていたらしいが。
そんな感じでとりあえずその後家族全員は無事だったのだが、しばらくしてから愛知県のおじいちゃんの家に2週間~1ヵ月ほど避難していた時期があった。
これは母が先ほど出てきた放射能の影響を心配したからである。
福島第一原発の送電網が津波による影響で故障し、メルトダウンを起こしたため放射能が海に漏れだしたのだが、千葉県も海に面していたりまあまあ福島県に近いということもあって、放射能のリスクがあるんじゃないかと母は考えたようだ。放射能は大量に浴びると将来甲状腺がんの原因になったりする。
私の母はこの放射能をはじめとして、コロナウイルスのワクチンに関する情報をいち早く察知したり、「日本はもうダメだから海外の大学に行きなさい」と私に勧めてきた張本人でもある。
とりあえず子供の将来や健康に関わることは何でも調べて色々気にするタイプの人なのだ。
母の調べによると、確かに千葉県でも雨水が溜まって全然循環していない汚い場所などはかなり放射能汚染があったようだ(本当にヤバいレベルなのかは知らない)。
そのため、母は色々考えた上で、「とりあえず一旦愛知に2週間~1ヵ月ほど避難しよう」という結論を出したようだ。この間、父は千葉県の家に残って仕事をしていた。
行動制限があった小学校時代
その後は千葉県に戻ってきて普通に千葉県の学校に入学したのだが、あんまり外の空気を吸うなだの、マスクをしろだの、給食の水産物は控えろ(そういう時はお弁当を持たせてくれた)だの、母の指示で様々な制限を課せられた小学校時代だった。
ちなみに、小学校低学年の頃の夏休みや冬休みはほとんど毎年滋賀県やら岡山県やらに被ばくを避けるために避難していた。そこで関西の友達ができたりもしたし、それはそれで楽しかった。ただ、そういった理由で小学生時代に千葉県で過ごした長期休みの記憶はほぼない。
この時の千葉の汚染レベルがどの程度でヤバいのか、将来どれくらいの確率でがんになるリスクがあるのか、などは当時の小学生の私には分からなかったので、母の言う通りにすることにした。
母のここでいう「まずい」というのは、本当に放射能がまずいレベルなのか、それとも将来のリスクや影響は今はよく分からないから警戒しろという意味だったのかは分からない。結局、本当に問題のあるレベルだったのか私は知らないし、色々嫌な記憶を思い出すので今更調べようとも思わない。
もしかするとこれを読んだ放射能に詳しい人が「確かに被ばくがヤバいのでお母さんの言う通りにして正解でしたね」「いや、当時の千葉の放射能は全然大したことないレベルでしたよ」などと議論を始めるかもしれないが、その行動の妥当性は今となってはどうでもいいと思っているので、しなくていい。
ここまで書くと母のせいで不遇な小学校時代を送ったような感じになるが、実は特にそこまで不自由した覚えはない。
小学校低学年で周りと違うことをしているということに対してちょっとだけ恥ずかしい気持ちはあった気がするが、強いて言ってもそれくらいだ。もちろんいじめなどは無かった。
当時の私も母が私の将来を心配してそう言ってくれていることだというのは理解していたし、今となっても何も恨んだりはしていない。
千葉県を去る
そして小学4年生になった頃、サイトのプロフィールページにも書いてあるようにとある田舎に引っ越すことになる。
もちろんこれは放射能の被ばくを懸念してのことである。母は食べ物や空気を気にせず、子供が外で思い切り遊べるような環境を希望していたのだと思う。
ちなみになぜ放射能を恐れていたのに小4まで引っ越しをしなかったのかというと、父がこれに反対したからだ。母は震災後に今すぐにでも引っ越しをしたいと思っていたそうだが、家庭内で話がまとまらず4年間も時間がかかってしまったのだ。何やってんだか。
ただ、私は心配性な性格だということもあって転校するのが怖かった。そして、今までできた友達と離れるのが嫌だった。そういうわけで引っ越すぞと言われた時はものすごく泣きたい気持ちになったし、親に対してふざけんなと思ったことも何度もある。
まあそうは言っても逆らう訳にはいかないので、その話を聞いてから数ヵ月後に千葉県を去ることになった。
そういう状況なので、父親は今も千葉県に残って働いていて、1~2週間に一度くらいの頻度でこちらに会いに来る。いわゆる単身赴任という形で、母と私ときょうだいだけ田舎に引っ越したという感じだ。
田舎での生活
そして、その泣きたい気持ち、嫌な予感は的中した。
転校先は田舎すぎて今までの生活に比べてすごく不便だったし、常識や考え方が自分の経験した小学生と異なっていたので、友達を作るのに苦労した。もちろんいい人もいたのだが、前の小学校のほうが楽しかったなと思った。
引っ越した後は、親に気づかれないように自室で結構泣いていたと思う。友達と別れたショックなのか引っ越し先の問題なのかは分からないが、自分の心が落ち着いて環境に馴染むのに時間がかかった記憶がある。
また、人間関係と人格の形成と言う意味でもこの引っ越しは時期的に適切ではなかったのではないかと思っている。
小4は本格的な思春期・反抗期には突入していないもののその予兆はあって、感受性が豊かで人格を形成する時期だ。その時期に、子供を幼馴染となり得る存在のコミュニティから引き剥がすという酷なことをしてくれたなとは思う。
私はちょうど小4のこれくらいの頃から成長期が来てしまった(割と早いとされる)ため身長が低いのだが、この頃のストレスに対する防御反応で体が大人になろうとして成長期が早く来たのではないかと思っている。本当にそうだとしたら、これまた酷い話だが。
実際問題、引っ越しのせいで今も連絡を取れる千葉の友達(幼馴染)は基本的にはいない。だから幼馴染との思い出話なんかを他の人から聞くたびに少し羨ましく思ったりする。
まあ正確には一人だけいる。その親友とは千葉に遊びに行くたびに会うしマレーシアに行く前にご飯も食べたりもした仲なので、これからも引き続き仲良くしていきたい。
地方での暮らし
生活には慣れたが…
引っ越し先については住めば都ということで、しばらくしたらどうでもよくなってきた。普通に友達もできたし、あまり喧騒がなくて過ごしやすい場所ではあった。
中学受験をして入った中学の環境が良かったからというのもあるが、小学校を卒業したあたりから千葉県民としてのアイデンティティは薄くなっていった気がする。
といいつつ今までの人生のちょうど半分くらいを過ごしてきたのも千葉なので、未だにその田舎と千葉県、どちらが自分の故郷なのかと言われると決められない。半分半分といったところだろうか。
地方と都会の学生の格差
ただ、地方での暮らしの問題点もあった。あまり頭のいい人がいないというところと、課外活動やら何かしらのイベントやらが全然開催されていないというところだ。
私の県はそこまでレベルの高い中学、高校が無かった。今でこそネットで見る鉄緑会のようなガチな塾はないし、基本的に県レベルで見ても東大京大に受かる人はごく一部だ。
なぜかは知らないが、千葉県の私のいた小学校の地区が頭のいい所だったらしく(私は小学校受験などはしていないが)、こういった印象を抱いたのはその経験との比較もあるのかもしれない。
今思えば中学の頃から勉強をガチって無双しておけばいいのにと思うが、本当に環境と言うのは大事で、周りの人が誰もそんなことは言わないものだから、そもそも先取り学習をしておこうという発想が生まれてこないのだ。
また、課外活動などのイベントはもちろん、IELTSですら田舎の悪い所が出てしまう。会場が私の県にはなく、わざわざ東京やら名古屋まで受けに行けないといけないのだ。
当然何かしらのイベントに参加したいと思ったら自分からネットで情報をキャッチする必要がある。そして当然、周りに海外志向の人や課外活動を楽しもうというタイプの人間はいない。
ちなみに、私は高校生レベルで見るとGSCをはじめとしてかなり多くの課外活動で実績を残してきたほうだとは思うが、部活以外のものは大体母親から教えてもらったものだ。海外進学を勧めてきたというのもそうだが、漸進的な考えを持っている母親の元に生まれたのはある意味で親ガチャに成功していたのかもしれない。
引っ越した当初はなんで引っ越したんだよと思っていたが、これもよく考えたら私たちきょうだいの健康を思ってしてくれたことだし、基本的に今まで母には感謝の念しかない(父親とはあまり仲良くない)。
そういうわけで、千葉県と比べるとまあまあ不便な中学、高校生活を送っていたわけだ。
千葉県にいたほうが海外に行きやすい環境があったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。このあたりのことはまた別の記事にでもしようと思う。
なんやかんやで、そうして今のマレーシアにいる自分がいるわけだ。3.11というより、この引っ越しに関連する出来事は自分の人間性や考え方に大きな影響を与えた気がする。
マレーシアと3.11
忘れられた3.11
最初の話題に話を戻そう。
数学の統計の授業で「放射能汚染の段階とその死者数」という恐ろしいテーマでこの相関係数を求めろという問題があったわけだが、そこで先生がふとチェルノブイリ原発事故の話を出した。
みんなチェルノブイリ原発事故については知っていたのだが、先生が「日本の3.11(東日本大震災)を覚えていますか」と尋ねると、みんなシーンとしてしまった。先生が「えっと、あの福島の原発の…」と補足を入れるも、みんな反応が薄い。
もしかしたら3.11はマレーシアであまり大々的に報道されておらず、彼らはこのことを知らないのだろうか?
それとも、報道はされたけれども他国の出来事なので関心が薄く、13年という年を経て忘れてしまったのだろうか。
どちらが原因なのかは分からないが、教育システムの制度の都合で同級生は基本的に私よりも年下なので、そんな幼い頃の記憶となれば忘れてしまっていても仕方がないとは思うが。
放射能関連の話にはなるが、つい昨年処理水問題が話題になった際も同じような反応は見られた。誰もあまりこの問題に興味を示さないのだ。これについても
- マレーシアではJ-POP、アニメ文化は輸入されるが、こういった類のニュースは入ってこない
- ニュースは入ってくるが、学生たちは若すぎるので関心がない
- そもそもマレーシア人自体がこういう話題に興味がない
などの仮説が立てられる。いずれにしても宗教や人種の問題にはみんな関心があるのに、意外とマレーシア人はこういう話はしないのだなと思った。
なお、この話題についてTwitterで呟いたところ「私の場合は真逆の状況でした」という人がいたので、もしかしたら周りの学生の環境によるのかもしれない。
余談だが、実はマレーシアには原子力発電所がないらしい。家に帰ってネットで調べてみると、現在のマレーシアでの電力構成は、そのほとんどが石炭やガスといった化石燃料に依存しているようだ。初耳。
当事者としてその問題を捉えるということ
個人的には、多分ニュースの報道はされているのだろうが、まあまあ遠く離れた国のことなので忘れ去られている説が有力だと思っている。
これについて彼らを責めるつもりは全くない。ただ単純な事象として捉えてみると、この問題は別に日本人であっても起こり得るものだと思う。
ロシアとウクライナの戦争問題をはじめとして、この前の台湾での地震など、外国の事件や災害の情報はたくさん入ってくる。何なら、日本では報道されていないだけで、今この瞬間も世界では誰かが何かしらの被害に苦しんでいることだろう。
日本のメディアもそうだし、それを見ている日本人もそうだが、これらの問題に真摯に向き合っている人はどれくらいいるだろうか。みんな「かわいそう」「大変だね」などとは思うものの、別に自分とは関係がないし重大な問題だとは思っていないのではないだろうか?
お恥ずかしながら、ぶっちゃけ私はそうである。私以外にも学生などにはそういう人も多いのではないだろうか。
現地の様子を見ていないというのもあるし、自分のこととして捉えられないのだ。明日の自分の生き死には関係ないと思っているので、真剣に考えるのが難しい。
じゃあどうするのかと言われると難しいが、こういうところを他人事として捉えている限り、問題の解決も真の意味でのSDGsの達成も未来永劫されることはないと思っている。表面上での同情や何かしているかのように見せかける仕草など、本質的には意味がないのだ。
綺麗ごとのように思われてしまうかもしれないが、こういった問題をいかに自分のこととして相手の立場になって状況を想像できるのかどうかというところに根本的な解決のカギはあると思うし、自分もそうでありたい。
終わりに
長くなってしまったが、このあたりで3.11関連の話は終わろうと思う。
本文だけ見ると引っ越してからの生活に不満を抱いているような印象を受けるが、普通に楽しかったといえば楽しかった。引っ越してからも友人関係に恵まれたことはあったし、学生生活としても比較的満足したものを送れた。
そして、2024年4月現在、私も私のきょうだいも特に健康被害などなく暮らせている。連絡は取れないが、千葉県の昔の友人たちは元気にしているのだろうか。彼らも多分健康に生きているのだろうと思うし、そうであってほしい。
どちらにしろ、私の人生は今の所なんだかんだで上手くいっているので、これで良かったのだということにしたい。
引っ越していなかったら実はもっといい未来の自分が待っていた可能性もあるし、引っ越して良かったのかもしれない。どちらが良かったのかは神のみぞ知ることなので、私にできることは今を精一杯生きて、今までの人生を自分の力で正解だと思えるように変えていくことだと思う。