早いもので、2011年3月11日に発生した東日本大震災からもう13年も経ってしまった。私は2004年生まれなので、地震が起きてからの生きている年数のほうが2倍ほど長いことになる。
なぜ急にこの話題を出したのかというと、数学の統計の授業で「放射能汚染の段階とその死者数」という恐ろしいテーマでこの相関係数を求めろという問題があったわけだが、そこで先生がふとチェルノブイリ原発事故の話を出したからだ。
みんなチェルノブイリ原発事故については知っていたのだが、先生が「日本の3.11(東日本大震災)を覚えていますか」と尋ねると、みんなシーンとしてしまった。なので今回は、先生が「えっと、あの福島の原発の…」と補足を入れるも、みんな反応が薄かったので驚いた、という話をしようと思う。
忘れられた(?)3.11
もしかしたら3.11はマレーシアであまり大々的に報道されておらず、彼らはこのことを知らないのだろうか?それとも、報道はされたけれども他国の出来事なので関心が薄く、13年という年を経て忘れてしまったのだろうか。
どちらが原因なのかは分からないが、教育システムの制度の都合で同級生は基本的に私よりも年下なので、そんな幼い頃の記憶となれば忘れてしまっていても仕方がないとは思うが。
放射能関連の話にはなるが、つい昨年処理水問題が話題になった際も同じような反応は見られた。誰もあまりこの問題に興味を示さないのだ。
これについても
- マレーシアではJ-POP、アニメ文化は輸入されるが、こういった類のニュースは入ってこない
- ニュースは入ってくるが、学生たちは若すぎるので関心がない
- そもそもマレーシア人自体がこういう話題に興味がない
などの仮説が立てられる。いずれにしても宗教や人種の問題にはみんな関心があるのに、意外とマレーシア人はこういう話はしないのだなと思った。
なお、この話題についてTwitterで呟いたところ「私の場合は真逆の状況でした」という人がいたので、もしかしたら周りの学生の環境によるのかもしれない。
余談だが、実はマレーシアには原子力発電所がないらしい。家に帰ってネットで調べてみると、現在のマレーシアでの電力構成は、そのほとんどが石炭やガスといった化石燃料に依存しているようだ。初耳。
当事者としてその問題を捉えるということ
個人的には、多分ニュースの報道はされているのだろうが、まあまあ遠く離れた国のことなので忘れ去られている説が有力だと思っている。
これについて彼らを責めるつもりは全くない。ただ単純な事象として捉えてみると、この問題は別に日本人であっても起こり得るものだと思う。
ロシアとウクライナの戦争問題をはじめとして、この前の台湾での地震など、外国の事件や災害の情報はたくさん入ってくる。何なら、日本では報道されていないだけで、今この瞬間も世界では誰かが何かしらの被害に苦しんでいることだろう。
日本のメディアもそうだし、それを見ている日本人もそうだが、これらの問題に真摯に向き合っている人はどれくらいいるだろうか。みんな「かわいそう」「大変だね」などとは思うものの、別に自分とは関係がないし重大な問題だとは思っていないのではないだろうか?
お恥ずかしながら、ぶっちゃけ私はそうである。私以外にも学生などにはそういう人も多いのではないだろうか。現地の様子を見ていないというのもあるし、自分のこととして捉えられないのだ。明日の自分の生き死には関係ないと思っているので、真剣に考えるのが難しい。
じゃあどうするのかと言われると難しいが、こういうところを他人事として捉えている限り、問題の解決も真の意味でのSDGsの達成も未来永劫されることはないと思っている。表面上での同情や何かしているかのように見せかける仕草など、本質的には意味がないのだ。
綺麗ごとのように思われてしまうかもしれないが、こういった問題をいかに自分のこととして相手の立場になって状況を想像できるのかどうかというところに根本的な解決のカギはあると思うし、自分もそうでありたい。