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【ネタバレあり】小説「正欲」レビュー|朝井リョウ著

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朝井リョウ著の「正欲」を読んだので、備忘録も兼ねてレビュー記事を書くことにしました。2023年に映画化されたりして、話題になった作品ですね。

2024年の5月末にカンボジア旅行をしながら、ホテルとか空港で読みました。

以下、ネタバレを含みますのでご注意ください。

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目次

基本情報

  • タイトル:正欲
  • 著者:朝井リョウ
  • 出版社 ‏ : ‎ 新潮社
  • 出版日:2023年5月29日
  • 読んだ日:2024年5月末
  • 値段:935円(もらった本なので無料)

あらすじ

「明日、死にたくない」とはなんなのだろうか、という筆者の問いかけから本は始まる。多様性というのは、マジョリティがマイノリティに対して使う概念であり、社会はマイノリティですらもほっといてはくれない、と筆者は言う。

その後、

  • 小学校の非常勤講師である矢田部陽平
  • 国公立大学3年生の諸橋大也
  • 大手食品会社勤務の佐々木佳道

が男児のわいせつ画像を撮影した、などの疑いで逮捕・書類送検されたと書かれたパートが始まる。彼らは小児性愛者で、卑猥なパーティーを開いていたとの報道だった。

その後は2019年5月1日まで、××日、という見出しから始まり、

  • 検事として働く、息子が不登校の寺井啓喜
  • 世間との隔絶を望む桐生夏月
  • 大也のことが気になっている神戸八重子

というそれぞれの登場人物視点での記憶が綴られていく珍しいスタイルの本となっている。

まず、寺井啓喜はある意味レールに沿った人生を息子には送ってほしいと考えているため、息子の泰希が不登校であることに危機感を覚えている。
ただ、そんな泰希はインフルエンサーに憧れ、彰良という少年と二人でYouTubeチャンネルを開設。本人たちは非常に楽しそうに動画投稿を続けているため母は社会復帰の一歩だと考えているが、啓喜は早く学校に行って欲しいと考えており、お互いの思いがぶつかる。

桐生夏月と佐々木佳道は中学時代の同級生である。夏月は周りの人となるべく関わらずに生きていこうとする中、西山修という幹事の誘いで同窓会に誘われる。
はじめは興味を示さなかった夏月だが、佐々木が来るかもしれないとの思いを胸に参加することになる。

二人は「水に興奮する」という特殊性癖を持っており、学生時代には蛇口から出る水を二人で見ていた思い出がある。同窓会で再開した二人は「この世界で生きていくために、手を組みませんか?」とのことで形式上の結婚を決めた。

また、金沢八景大学に通う神戸八重子は、ミス・ミスターコンテストを廃止しようとする。彼女は人の容姿に優劣をつけるようなイベントは良くないと考えており、代案としてダイバーシティフェスを企画していた。
彼女は容姿にコンプレックスがあり、また高校生時代に兄がJKモノのアダルトビデオを見ていたことがきっかけで異性に対して恐怖の念を抱くようになっていた。ただ、大也だけは別物で、男性恐怖症を感じさせなかった。

泰希と彰良のYouTubeチャンネルは途中から視聴者リクエストに応えるというスタイルでの活動を行っており、時々「水で遊んでいる動画」などをリクエストされることがあった。
特に卑猥でもなんでもないものかと思われたが、YouTubeの児童のわいせつ物の規約によりチャンネルは停止。夏月と佐々木は水に興奮する特殊性癖をもっていたためチャンネルの動画を楽しみにしていたが、そのはけ口が失われる。また、「サトルフジワラ」というコメントを行っている者がいたが、その正体は夏月でも佐々木でもなかった。

大也もそんな水フェチの一人で、ある日古波瀬という人物から水フェチの人たちが集まるパーティに誘われる。
これによって自分と同じ悩みを抱えている人たちと交流することができたが、それに向かう道中で八重子らとのゼミ合宿を嘘をついてサボることになる。大也はそれを引き留めようとする八重子にあまり関わってほしくないと感じるようになる。

その水フェチのパーティーには大也に加えて夏月と佐々木、矢田部が参加していた。
昼の公園でパーティーは行われており、そこで佐々木の上司達と運悪く遭遇し、その中の矢田部だけは小児性愛者だったため、そこから証拠が漏れ出して彼らは逮捕されてしまう。

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感想とか

感想

あらすじだけでだいぶ長くなってしまいました。というのも、話が複雑すぎて、多分一回じゃ完璧には理解できないんじゃないかという気がしました。

今は忙しいのでもう一度読み返すことはしませんが、正直最初は面白くない本なのかなと思いました。複数の人物の視点で進んでいく話ってなんかよくわかんないし、筆者の問いかけも意味わかんないし。
でも、途中からだんだん作中のミステリアスな雰囲気に引き込まれて、次は何が起こるんだろうとゾクゾクさせられました。半分より後のほうはホテルで眠い目を擦りながら一気読みしてしまった気がします。

考察

まあ感想はここら辺にして、考察的なことを書いてみます。読んでから2週間くらい経っているので、当時の考察とか感想をあんまり思い出せないのが悔しい…

考えさせられる「多様性」のあり方

まず「正欲」というタイトルを見た時、最初はなんかエロチックなだけの本なのかなと思いました。ただ、実際に読んでみるとそんなことはなく、どちらかというと性というよりもマイノリティに焦点を当てた話でした。
水フェチの人間中心に話が進んでいったために、私がエロチックな内容だとは感じなかっただけなのかもしれませんが。

というのも、確かにセックスやアダルトビデオに関する表現は出てこなくもないのですが、基本的には「水フェチであることを恐らく世間に理解してもらえないだろうと感じている人たちが、世間にほおっておいてもらいたいと思いながら肩身苦しく生きていく」という描写がメインです。

現代社会は「多様性」という言葉を大切にしていますが、444ページにある大也の言葉を借りれば、それは「一つの方向に全員を導こうとしている」「”色々理解してます”風を装っただけ」に過ぎません

確かに、作中で言えば「ミス・ミスターコンを廃止すべきか否か」問われていたことあその例で、現実世界で言ったらLGBTQを理解しよう!的な流れがあったりもします。
が、これだってLGBTQが全てだという決めつけから入っていて、このような水フェチの人の扱いは想定していません。また、「理解してあげよう」という姿勢もどこか感じさせるものであり、マジョリティ側の人間がいつも「受け入れる側」であるという、少々上から目線な構図となっています。

著者はもしかすると、こういった安易に「多様性」に対する理解を推進しようとする社会に対するアンチテーゼとしてこの本を書いたのかもしれません。そういった意味で、このあたりで描かれていた大也と八重子のやり取りは非常に印象的でした。

確かに、これを書いている私自身も、性癖としてはマジョリティに属するのかもしれません。普通に異性を恋愛対象として見ることもありますし、それ以上でもそれ以下でもありません。
ただ、だからこそマジョリティは「多様性」という言葉で思考を停止し、自分の想定を超えた範囲については恐れ慄いているだけのものとして扱ってしまうのではないかと思います。

ただ、八重子も言うように、現実世界が仮にそうであったとおしても、マイノリティの側が「俺たちはこんなに辛いんだ」「お前には分からないんだから、ほおっておいてくれよ」という姿勢でいるのは良くありません。
だって、マジョリティにはそれが分かるはずもないのですから。自分の言葉で、性癖を説明していく必要があります。これは性癖以外でも自分自身の人生全般の悩みにも当てはまることだと思いますが、そうしてはじめて対立構造にあった両者がお互いを理解しあるような高次のフェーズへと進んでいくことができるのです。

また、マイノリティの性のはけ口についても社会が邪魔をしてしまっている、という事例についても考えさせられました。作中では夏月らの水フェチ欲級を満たす場所としてYouTubeがあったわけで、泰希らが水で遊ぶシーンが彼らの心休まる時間でした。が、児童ポルノを防ぐためにYouTube側で水着などのシーンがNGになってしまいます。
もちろん彼らは水に興奮していただけなのですが、社会はそうは思わなかったようです。言われてみれば、どこから性的に興奮しているのかというラインは第三者がはっきりと見て判別できるものではなく、想像の範疇を過ぎません。

「誰が何をどう思うかはコントロールできない」と大也が言うように、他人の感情はコントロールできません。
だからこそ、我々は勝手に自分の文脈に「この人はこう思っているんだろう」と相手の感情を落とし込んで、世の中を生きていくのです。

タイトルに込められた意味

さて、話を戻すと、正欲というのは性についてのことではなく、「正しく生きようとする欲求」ということだと思います。社会が求めるものに従って、こうある「べき」、こうする「べき」という枠組みとマイノリティとの対立が印象的でしたが、そもそも「正しい」とは何なんだろうか、と考えさせられる作品でした。

先述のようにこれらの「正しい」という枠組みはマジョリティが決めつけたものであり、他人にとっての「正しい」とは別物なのです。戦争でも、正義の反対は悪ではなくて別の正義と言われることがありますが、まさにその通りです。

ただ、それと同時に、私は正欲とは「自分に正直に生きようとする欲求」でもあるのかなと思いました。確かに社会からほおっておいてもらって一人で生きていくことができればマイノリティは楽なのですが、現実はそうはいきません。
つまり、しっかり食べてごみを出して、寝て起きて働く、というライフサイクル(これ自体を正しいものとして強いているのも社会自体なのが皮肉ですが)を行っていく上では、人間は一人で生きていくことはできません。

つまり、強制的に社会の一員になることが求められるわけです。社会の一員になれば、みんなが協力していかなくてはいけない。つまり、お互いがお互いのことを理解し合う必要がある。
そうなった時に「どうせ分かってもらえないから」と心を閉ざしてしまうのではなく、自分の欲求に「正」直になって、それを自分とは違った考えを持った人に伝えていくべきなのです。

著者にそういった意図があるのかは分かりませんが、単なる「多様性」のお花畑の押し付けをするマジョリティ側を風刺するだけでなく、「全員で生きている」この社会全体にスポットライトを当てている作品なのではないかと私は思いました。

難解な本だったのですが、本の最後にある東畑開人氏による解説を読んでみるとなんとなく腑に落ちた気もするので、気になった人はぜひ読んでみてください(こちらでは「正しい性」と考察されていました)!
話が難しすぎて考察も何を書いているのか自分でも分からなくなってきたので、ここで終わろうと思います。

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