なぜ外国人は陽キャに見えるのか?留学して気づいた”間”の文化についての考察

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外国人と聞くと、「明るくて社交的で前向き」な、いわゆる陽キャな印象を抱く人も多いのではないでしょうか。

正直に言うと、私自身はそう感じています。なんとなく、毎晩のようにお酒を飲んで盛り上がっている…そんなイメージが頭に浮かびます。
もし「そんなイメージ持ってないよ!」という方がいたら、ごめんなさい。

こういった印象は、いかにも「日本でしか暮らしたことがない人間の先入観」と思われるかもしれません。ですが、実際にマレーシアへ留学してからもそういった感覚はあまり変わっていないのが正直なところです。

もちろんマレーシアで毎晩パーティーを開いている人はほぼいませんし、ネガティブな性格の人ももちろんいます。アメリカなどでも事情は似ているのではないでしょうか。

それでもなお、日本人と比べて陽キャっぽいな、と感じる場面が少なくないんですよね。

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目次

この記事の要約

では、なぜそう感じるのでしょうか?その理由を自分なりに整理してみました。

  1. 本質的に外国人が陽キャなのではなく、外国人と日本人の間にあるコミュニケーションにおける距離感の違いからそう見える
  2. 外国人に対する漠然としたイメージ(ステレオタイプ)が自分の中にある
  3. 日本人のまじめで内向的な国民性が、相対的に外国人を明るく見せている

2つ目に関しては、海外事情をよく知らないまま「外国人=毎晩パーティー」というようなステレオタイプを抱いているということ。3つ目については、日本人は「マナーが良い」とされる一方で、細かいことを気にしすぎて伸び伸びと過ごせない面もあり、そこが相対的に陽キャ的な外国人像を強調しているのかもしれません。

ただ、2つ目・3つ目の要因はあくまで表面的な話にすぎないので、今回は1つ目の「距離感の違い」という点にフォーカスして掘り下げていこうと思います。

その過程で、日本文化における「間(ま)」の美学や、日本人の本質的な考え方としての「距離を大切にする文化」にも気づくことができたので、今回はそれらを歴史的な背景も交えながら考察してみたいと思います。

そもそも外国人とは何か

まず外国人と言えば、お前もマレーシアに居させてもらってる立場なんだから外国人だろってね。まあ屁理屈は置いておいて。

正直、外国人とは聞いてまず自分が想像してしまうのはアメリカ人とかヨーロッパ系の人とかです。実際そういう人も多いんじゃないでしょうか。
が、この問題を理解するためには、まずここからしてかなり日本人はバイアスがかかっているということを理解する必要があります。

アフリカとか中東、インドとかの人だって人口的には多いですし、中国や韓国の人だって立派な外国人です。
なのに、頭の中にはつい、いわゆる白人が浮かんでしまう。
アメリカのポスターなんかでも「アジア人が全然入ってないじゃないか!多様性差別だ」なんて言われて炎上する話は聞きますが、日本人である自分も、無意識のうちに多様性差別みたいなものを行っていたのです。

話が逸れてしまったのでこの記事の進行上の話をしておくと、外国人と言っても私が見たことがあるのは主に中華系マレーシア人の人たちです。あとはインドネシアとかミャンマーとかのアジア人。
時々ヨーロッパや中東、アフリカから何かしらの形で留学に来ている人がいたりしますが、サンプル数としてはそこまでいませんし、アメリカ人やオーストラリアの知り合いもいません。

ほとんどアジア系の外国人を見て思ったことをもとにこの記事を書いているので経験に偏りがあるよ、ということだけ事前に言っておきます。

ただ、アジア系なので性格や価値観も割と似ているんじゃないかと思っていますが、それでも根本的に日本人とは気質が違うと思っているので、一考する価値はあるかと思います。

陽キャとは何か

何をもって陽気なキャラクターだと言っているのかと言われると難しいところがあります。

恐らく総合的に陽気さを感じているのだと思いますが、あえて単純化してみると、「初対面だとしてもいい意味で距離感を感じさせない」という性質を持っていれば割とそれらしきものになるのではないかと思います。

ですので、今回はそういう目線でどう日本人とコミュニケーションの違いがあるのかを考察してみます。

日本は「間の文化」でできている

現代社会における他社との隔たり

そして、留学して強く実感したのは、日本というのは、人も文化も「間」を重視した国なのだなということです。間というのは、距離感のことです。

まず現代社会の例でそれを挙げるとしたら、他人のプライベートな空間にズカズカ入り込まないというのがそうでしょう。

心理的な意味でのプライベートで言えば、

  • 初対面の人には、好きな異性のタイプや年収などはいきなり聞かない
  • エレベーターに知らない人同士が乗ると、無言になる

物理的な意味でのプライベートで言えば

  • 電車でガラガラな席に一人座っている人がいたなら、その人の隣にはあえて座らない
  • 急に出会い頭にハグをしない
  • 簡単な立ち話であればドアの外でして、下駄箱より先には入らない
  • 他人の空間で椅子に座るときは一言言われるのを待つ

などがそうです。外国人でもそうかもしれませんが、こういう例は日本人だと多いと思います。相手を慮るみたいな。

思いやりとか空気を読むことだって、言ってしまえば一種の間です。

  • 飲み会で「今日はあまり飲みたくない」と言う代わりに、「明日朝早いんですよ」とやんわり断る
  • 「修正しろ」と言う際、「この資料、ちょっと気になるところがあるね」と言う

これらは、相手が嫌な気持ちをしないように一定の距離感を保つ代わりに、こっちにもそれ相応の配慮をしてくれよ、という暗黙の了解において成り立っているのです。

日本の伝統文化

こういった間は、日本の伝統文化においても見られます。

  • 能や狂言
    • セリフの合間の「間(ま)」が重要。余白の時間を通じて感情を表現する。
  • 茶道
    • お茶を点てる動作の一つひとつに間があり、余韻を味わう文化。
  • 日本庭園
    • 「石と石の間」や「池と木々の間」のバランスを大切にする。すべてを埋め尽くさず、“空白”に意味を持たせる美意識。

また、昔から対人における距離感についても配慮する民族だったと思われる根拠もいくつかあります。

  • 傘かしげ
    • 狭い道ですれ違う際に、互いの傘がぶつからないように斜めに傾ける作法。
  • 肩引き
    • 狭い道で人とすれ違う際に、自分の肩を少し引いて道を譲る所作。
  • 袂(たもと)振り
    • すれ違う際に、相手に着物の袖が当たらないように振る作法。

なぜ「外国人=陽キャ」のイメージがあるのか

日本人から見ると異質な「間」

閑話休題。私は日本人と外国人の、主にコミュニケーションの距離感が異なっているがために、日本人の中では「外国人=陽キャ」というイメージがあるのだと思います。

特に外国人とコミュニケーションを取っていてびっくりしたのは

  • 急に握手をしてくる(マレーシアではハグはあんまりない)
  • 出会い頭30秒でインスタを聞かれる
  • 初対面なのにBro~などと言ってきて、どこか馴れ馴れしい

とかですね。これはみんなやってます。

ですが、これらも先ほどの日本人の「間」からしたら異質なものです。

握手は物理的、インスタ交換や言葉使いは心理的な意味で、日本だとあまりここまで距離を詰めてくる人はいないでしょう。

つまり、日本で育った人からすると「うわっ、コイツいきなりプライベートの距離に入って来た」と感じてしまうわけです。
そして、「そんなことができるとは、勇気があって気さくな奴だなぁ(=陽キャ)」と考えてしまうのではないでしょうか。

これは相手の会話を引き出すのがうまいとか、お笑いができるとか、そういう意味の陽キャではありません。そういうのが苦手な人はマレーシアにもいます。
でもなぜそう感じるのかと言うと、お互いのプライベート空間に対する距離感の認識違いに起因して感じる陽気さなのです。

言語の性質と沈黙

また、口数についてですが、日本人同士の会話では沈黙が比較的ポジティブに受け取られるケースもあります。
親しい友人や家族同士だったら、何も話さずに一緒に時間を過ごせることが「心地よい」と感じられることもあるでしょう。

これは、無理に言葉で埋めなくてもお互いの関係が成立しているということを、間によって示すことができる文化だからです。

一方で、英語圏の文化では沈黙が気まずいものとされることが多く、「会話が途切れないようにすること」がマナーとされています。
この違いも、日本人からすると外国人がフレンドリーで陽キャに見える要因のひとつかもしれません。

良くも悪くも、日本はガラパゴス化している

よそはよそ、うちはうち

そして、日本は良くも悪くもガラパゴス化していると思います。

みんな外国のことをよく知らないから、外国に対して勝手なイメージを持っている。
だから、私の頭にはアメリカ人とかの外国人が毎晩お酒を飲みながらパーティーしている様子が浮かんできたのかもしれません。

これは勝手な想像ですが、「外国人=陽キャ」という構図そのものですら先入観が勝手に作り出したものの可能性もあるなと、書いてて思いました。

そして、死刑廃止とかだって外国がどうとかお構いなしに実施していないし、海外だと普通のタトゥー文化も流行していない。

そう考えると、たまに「なんて日本は遅れているんだ!」と悲観的になる人が一定数いるようですが、私としては日本はこれでいいんじゃないかと思います。

確かに一時的に韓国文化が流行ったりとか、そういう表面上の文化の受け入れはあります。
でも、根本的には「よそはよそ、うちはうち」の線引きができてるからこそ、自分たちの中の幸せや価値基準で生きることができるんじゃないでしょうか。

島国であるが故の理由

まあでも、考えてみれば島国なんだからそうりゃそうなります。

陸続きじゃない国なんて、(オーストラリアのように変に外国に侵略される場合は例外として)大体同じような民族しかいなくて、みんな安定を求めるような国民性になります。だって外的刺激がないんですもの。

外国は陸続きの国が多いわけで、そうなると色々な民族が混ざったりしてゴタゴタが生まれるので、間を重んじている余裕なんてないのだと思います。
相手に常識とか共通の価値観を求めても通用しないので、だったら言葉なり行動で直接自分の意思を示すからいいわ、ってなります。

特に中国のあたりなんて、昔から何前年と血で血を洗う戦いがあった上で今の国家があるわけです。
中国の人が若干我が強いというか図々しいかのように映ることが多いのは、そういう戦闘の血が流れているから。そうじゃないと生き残っていけないのでしょう。

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終わりに

「外国人=陽キャ」というイメージは、本質的に日本人と外国人の「間」の文化に起因するコミュニケーションの距離感の違いから生じているのではないか、というのが今回の考察の結論になります。

日本は「間」を大切にする文化を持ち、相手との適度な距離感を保つことで円滑な人間関係を築いてきました。
ですが、海外では「間を詰める」ことがフレンドリーさの象徴として機能していたりもします。日本人からすると、そうした距離感の近さが「陽キャっぽさ」として映るのだと思います。

そして、その背景には、日本が島国なのだという地理的要因が根強いのではないかと思いました。

もちろん、外国人と一口に言ってもその文化や価値観は多様ですし、一概に「陽キャ」だと決めつけることはできません。
ですが、長い日本の歴史の中で培われた「間」の文化と、それとは異なるスタイルを持つ外国人とのギャップがあるのは確かだと思います。

対人関係一つ取ってみても、その背景にはお互いの歴史や文化が深く関わっています。
だからこそ、その違いを面白がりながら互いの文化を尊重できるようになれれば、異文化理解としてはそれが一番理想的な形なのかもしれません。

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