世間では結果を出すためには才能と努力はどちらのほうが重要な要素なのかといった議論がなされることがあるので、これに対する私の意見を書いてみようと思う。
というかそれは前置きで、本音としては留学を通して「その議論ができる状況にある自分がいかに恵まれているか」ということに気づいたという話がしたい。
一人で海外大学に行かせてもらえること。そして物乞いなんてせずに毎日不自由なく生きられること。
そんな土台の上であたかも当たり前のように努力だ才能だって議論している自分がいたことに気づいた。それすら叶わない人だっているのに。
本記事の要約
ここでは、結果を出すという事象を「目に見えた目標達成や何かしらの合格・受賞」などと定義することにする。
すると、私個人としては才能と努力だけでなく、
- 運:「たまたま街中でいい人と出会って結婚できた」みたいな、チャンス。自身でを増やしたり変えたりすることはできるが、完全には制御できないもの。
- 才能:生まれ持ったその分野に対する適性。ずっと変わらないもの。
- 努力:練習など、自分で意識をして行うことができるもの。
の3要素が絡み合って決まるものだと思う。
そして、私は運>>>>>>>>才能>>>>努力といった具合で重要になると考えている。
以上。終わり。
としてしまえば良いのだが、世間では努力すれば報われるうんたらとかの議論が絶えない。だが、それらを全て総括するとこうなるんじゃないかと思う。
大事なのは運→才能→努力だけど、運は完全にはコントロールできないし、才能は不変。でも、変えられないものについて色々言っても仕方ないから、自分ができること(努力をする)しかないし、そういう姿勢が幸せになるための人生の最適解だよね。
本記事で言いたいことはこれだけなのだが、留学中の経験を通して、その議論をしている人たちもまた、努力できることそれ自体が特権であるということを認識したので、それについて書こうと思う。
というか、どっちかというとそっちを伝えたい。
運と才能と努力の定義
これらの要素の相互関連性
まずは運と才能と努力の定義。
- 運:「たまたま街中でいい人と出会って結婚できた」みたいな、チャンス。自身でを増やしたり変えたりすることはできるが、完全には制御できないもの。
- 才能:生まれ持ったその分野に対する適性。ずっと変わらないもの。
- 努力:練習など、自分で意識をして行うことができるもの。
だが厄介なことに、言葉上ではこれらは完全に分割して考えることができないと思っている。なぜなら、相互に関連して変化することがあるからだ。
例えば、いい人に出会うためにマッチングアプリをインストールし、その結果1人目で運命的な出会いをしたとする。
「1人目で運命的な出会いをした」という事象それ自体については自身でコントロールできないことであるので運に分類されるが、
- マッチングアプリを入れるという決断
- プロフィールをいい感じに完成させた労力
などを考えると、これは意識的に行ったことなので努力だとは言えなくはない。
また、努力についても頑張りやモチベーションに影響を与える遺伝的要因や環境要因がある(かもしれない)的なことが研究で示唆されているし、実際に周りを見ていても努力に対する適性はあると思うので、これも才能の一部と言えなくもない。
こんな具合で、これら3要素を完全に独立した要素として考えることはできないのである。
そのため、これら3要素の分類については「大体こんな感じ」という分類になる。議論もそれで進めていくため、その点だけご了承願いたい。
これらの要素の具体例
これだけだと分かりづらいと思うので、具体例を見ていくことにする。
私は高校時代の夏休みに音響音声学の研究をはじめ、半年経たずして研究コンテストの全国最優秀賞を受賞することができた経験がある。
なぜこれを達成できたのか、まずはこの経験を分解してみよう。
運はこんな感じ。
- 自称進学校に在籍していたため、ある程度課外活動の時間を確保するだけの暇があった
- たまたま良い感じの本/論文を見つけることができ、そこから着想を得てテーマ設定をすることができた
- たまたま先生が研究コンテストを勧めてくれた
- 知り合いにたまたま音響音声学の専門家がいた
- 音響音声学は専門家が少なく、厳密な学術上のミスなどを指摘されづらいため、高校生の研究コンテストでは勝ちやすい分野だった
次に才能。
- 音響音声学、強いては研究活動を楽しいと思える心があった
- 何事も納得するまでやり切りたい!という心意気があった
- プログラミングや数学を勉強してみると、一般的な学生よりも習得が早かった
最後に努力。
- 毎日夜中の3時とかまで本を読み漁り、知識を付けた
- ビビらずに研究コンテストへの参加を決意した
- 自分から専門家にコンタクトを取って質問した

結局どれが大事なの?
やはり運>>>>>>>>才能>>>>努力だと思う。
というのも、まずは運の面で
- 良い感じの音響音声学の本を図書館で見つける
- 先生が研究コンテストへの参加を促してくれる
などがなければ、そもそもこの受賞にはたどり着けなかったからである。
イチローが野球に出会っていなかったら、スティーブジョブズがITに触れる機会がなかったら、何も生まれていなかっただろう。
そして、次に才能だ。
これは別の例を使うが、仮にウサイン・ボルトと私が同じ年齢から100m走を始めたとして、同じ練習をしたとする。
すると、恐らくボルトは1時間当たり10の速度で技術が向上していくが、私は1とか2とかしかスキルは伸びない。
数学の一次関数の傾きを考えてもらえれば良いのだが、才能のある人に同じだけ努力をしても、差は開く一方なのである。
その分努力をすればいいじゃないか!という話にはなるが、才能のある人は努力を惜しまない(天才だけど努力できないんだとしたらそれも含めて才能の欠陥)ので、勝ちようがないのだ。
まあ現実的にはそれができる人はほとんどいないので、自分の目標設定から逆算して必要な才能があるのかを見極める必要があるのだが。
なので、音響音声学とか研究コンテストに対する才能が今以上に私になかったら、これもまた受賞には結びつかなかった可能性が高い。
というわけで、才能がある人には努力をしても勝てないので、努力よりも才能のほうが大事。
ただ、いくら才能があっても、根本的には機会がなければ生まれるものは0なので、運が一番大事、というのが私なりの結論。
変えられるものと、変えられないもの
じゃあ人生を好転させていくためにはどうしたらいいのかという話になる。
ここで、人生は死んだら終わりのゲームなので、いかにポジティブに、幸せに生きるかと言う視点が重要になる。
そのため、(当然のことだが)変えられないものは仕方がないから変えられるものを頑張って変える、というのが人生を好転させるために重要となる。
ここで、
- 運:ある程度は自分で変えられる
- 才能:不変
- 努力:基本的に自分で変えられる
という性質があるので、頑張って努力をし、運を増やすということが大切となる。
これも経験則になるのだが、自分から行動すれば自然と周りにいる人間も変わってくるので、チャンスが圧倒的に増える。
その結果必ずしも恵まれるとは限らないが、一番影響が大きい運を増やすために、何かに対してガツガツチャンスをつかみ取る姿勢で生きることが大切なのである。
「何かに対してガツガツチャンスをつかみ取る姿勢で生きること」というのが一種の努力であり、運をある程度変えることができる方法でもある。
そして、努力についても努力自体に対する適性なるものがあって人には向き不向きがあるようだが、それでもゴチャゴチャ言わずにがむしゃらに頑張る。
最後は根性論になってしまったが、これが全てだと思う。

努力できること、それ自体が特権
最後に言いたかったのは、努力できること、それ自体が特権だということだ。それも運と言うか、才能と言うか。
才能の面から言えば、先ほども書いたように努力への向き不向きとかが人によってあるということだ。留学中に3時間毎日勉強するのがつらい人もいれば、それくらい平気でしょ!という人もいる。
無意識のうちに履いている下駄
まあそれは言わずもがな分かることなので良いのだが、留学(というより東南アジア旅行)を通して、努力をできる環境そのものがあるという前提の上にこの議論は成り立っているのだなということに気づいた。
例えば、東南アジア諸国の観光地に行くとかなりの割合で物乞いがいる。そして、彼らは「マネー、マネー」などと言ってお金を要求してくる。
念のために意思疎通を図ろうとするも、彼らは当然英語を流暢に話すことができないのでそれが叶わない。
旅行者がその国の言葉を話すべきだ的あんの議論は今回置いておくことにするが、何のサービスも提供していないのにお金を要求するわけなので、そこは旅行者に合わせて日本語を学んだ方が要望を飲んでもらいやすいだろう。
なので、スマホ一台あれば英語が無料で勉強できる時代なんだから勉強すればいいじゃん、という話になる。
ただ、当人たちの状況を見てもらえれば分かるが、(スマホくらいは持っていたにしても)今日を生きるのに必死な人たちにそんなことができるわけがない。
留学に対する不満
留学をさせてもらっていることだってそうだ。
たまたま自分の親は何も言ってこなかったので自覚がなかったが、世間では親に海外大学進学を反対される人も少なくない。
マレーシア留学は費用が安いから金銭面で問題ないにしろ、何かと理由をつけて日本の大学に行け、と。
というか、もしかしたら大学進学すらさせてもらえず、高卒で働いて家にお金を納めなくてはいけない状況の人もいるだろう。
なのに、マレーシア留学で英語力が伸ばせる人とそうでない人がいるとか、マレーシア留学は正解の選択肢なのかどうなのかとか、そんなことを考えている自分がいた。
というより、正直マレーシア留学に期待しすぎていた自分がいたので、それに対してガッカリしていたのだろう。

結局そういう議論をしている自分が下駄を履かせてもらっていることについては考えたこともなかった。
自分では建設的な話をしているつもりだったが、結局は何かに対する批判とか不満があって、それを議論の体を取ってぶちまけているだけだ。
結局それでいうと、私は甘ったれているだけ。批判するときは、自分の努力でどうにかできる範囲のことをしてからグチグチ言うべきなのだ。
というわけで結局何が言いたい記事なのか分からなくなってしまったが、要するにそんな議論をできる自分がいかに恵まれているかということを自覚しながら、努力をして運とかを変えていきましょうということだ。