この記事はネタバレを含みます
宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」、日本中で話題となっていましたね。
私はジブリ映画好きでもありますが、内容が難解とのことで気になっていた映画だったので、先日マレーシアの映画館で見てきました。一応原作も漫画ではありますが読んだことがあります。
色々な人が内容について考察しているようなので、私も映画を見て感じた感想を書いてみようと思います。他の人の考えも気になりますが、考察サイトを見るのはこの記事を書き終わってからにします。
以前noteに「君たちはどう生きるか」の考察記事を書いたのですが、本記事はそちらをブログ用に再編したものとなります。映画を見た日は2023年の12月16日です。
以下、ネタバレを含みますのでご注意ください。
あらすじ
一度見ただけで、考察記事などを参照していませんので間違っていたらごめんなさい。
調べてみると登場人物の漢字が日本版と違うようですが、中国語の字幕が真人になっており、真の人と言っていたので真人表記にします。夏子は漢字が分かりませんでしたが、ひらがなが面倒なので夏子表記にします。
本編は真人という少年が戦争で母親を失い、田舎(疎開先)に東京から移り住むところから始まります。真人の母の妹に「夏子」という女性がいて、真人の父はその女性が好きでした。
夏子は真人の新しいお母さんとなり、夏子は身ごもっていました。真人は新しい学校に転向しますが、あまり馴染めずいじめられてしまいます。帰りに喧嘩になりますが、家に到着する前に石を自らの頭に打ち付けて傷を付けました。
そして真人たちが住んでいるその田舎のお屋敷には不思議な棟があって、摩訶不思議な現象が起こるそうです。言葉を喋れる不思議な鷺が真人のもとにやってきて、「母の所に招待してやろう」と言います。真人は「母はもう死んでいる」といいますが、気になっています。
その後、夏子が突然屋敷の外にある森の奥に入って行ってしまいました。真人はそこへ夏子を探しに行くことにします。そこから場所を転々として異世界にいくわけですが、その過程で夏子を発見したり、死んだはずの真人の若かりし頃の母に会ったりします。
少々長いのでスキップすると、その後異世界の宮殿(?)のようなところを上っていくと、昔に本を読み思想にふけったあとに突如姿を消した真人らの大叔父がいました。
大叔父は綺麗な世界を保つ仕事をしていて、血がつながっている真人にその後継ぎになってほしいと言います。真人たちの世界は汚くて憎しみに溢れており、いずれ炎で包まれてしまう世界だろうと言っていました。
ですが真人はその選択をせず、見つけた夏子と一緒に元の世界に戻ることにします。
青い鷺も最初は真人と仲が悪い立ち位置でしたが、この冒険で「友達」になり、同時に異世界に紛れ込んでしまったおばちゃんとも一緒に元の世界に戻ります。
その後、身ごもっていた夏子の子供が生まれ、真人たちは東京に戻っていきます。
見る前の印象
まず最初のCMポスターを見た時は「え?何この鷺」と思いました。
私は吉野源三郎著の原作の「君たちはどう生きるか」を漫画版ではありますが昔読んだことがあります。
しかし、そちらはコペル君という男の子がいじめられている友達を助ける約束だったのに裏切ってしまい罪悪感を感じていて、最終的に正直に謝りに行くことができてめでたしめでたし、という話で、主人公の顔も全然違いますしそんな鳥は出てきませんでした。
そもそも原作は内容がそこまで難解か?と言われればそんな気はしなかったので、なぜここまで話題になっているんだろうと思い映画を見てみました。
宮崎駿監督のメッセージの意図
私は、この映画の主題は
- 宮崎駿としての戦争批判
- 世界はまだ悲観するほど終わっていないんだぞという希望、励まし
- 真っ直ぐ生きることの大切さ
だと思いました。普段は考察とかはしないのですが、他の人が考察で盛り上がっていたので私もやってみることにしました(時代遅れ)。
宮崎監督自身やその周りの人たちの経験を暗示しているキャラクターがいたりするのかもしれませんが、私は宮崎監督の生い立ちなどはあまり知らないので現実世界とリンクした考察はできません、ということだけ先に言っておきます。
以下、それぞれ詳しく解説します。
戦争批判
まず戦争批判についてですが、宮崎監督は生命の美しさを描いたような作品を作ることが多いです。これは過去作の「風立ちぬ」で、人間の夢(飛行機)の美しさと共に、戦争のむごさとして戦争批判がなされている気がします。
本作も戦争の炎によって真人の母が死んでしまうところから始まるわけですが、最終的に大叔父の「この世界はやがて火に包まれるが、それでも真人ははいいのか」という発言も、争いや戦争で人類は衰退していくんだぞという意味だと解釈しました。
世の中の戦争や人々の争いに対する批判的な意図が読み取れます。
作中でも母が炎の化身として出てくるシーンが何度も登場しますし、真人のお父さんは武器や飛行機のような何か戦争チックなものを工場で製造していました。
作中ではワラワラは命のもとだと言われていましたが、それらを食べて命を奪ってしまう鷺たちも登場します。命を奪う、という表現が直接されていて、戦争による死者ともリンクします。
しかし、鷺自身にも「この海は魚がいなくなってしまって、ワラワラを食べなくてはどうしようもない」という事情があります。
真人たちはワラワラを食べる鷺を撃退していましたが、鷺たちにとっても命が懸かっている正義があったわけです。実際にその後、真人たちの正義(ワラワラを食べる敵の鷺の撃退)が原因で鷺は亡くなってしまいますしね。
こちらは実際の戦争や争いの構図と全く同じだと思います。
戦争だって、ただ殺したいから殺しているというよりも、お互いの正義がぶつかり合った結果戦争になっているのではないでしょうか。例えば今はウクライナとロシアの争いが問題になっていますが、100%どちらが正義か悪かなんて断定できないと思います。
どちらにしろ戦争を意識させてくる映画だなと思いました。
世界に対する希望、励まし
次に、世界はまだ悲観するほど終わっていないんだぞという希望、励ましのメッセージについて書きます。
「この世界はやがて火に包まれる」などの大叔父の発言から、現実世界は汚いのだということを言われていました。
他にも産屋を覗くのはタブー、血が大量に流れてくるシーンがあったりと、何か昔の日本社会の「穢れ」という概念を連想させるところがありました。
また、異世界でもインコたちが宮殿のそばで「ここは天国?」などと言っていたり、おばさんがイヤそうな顔をしてタバコを吸っているおじさんに妬みの発言をしています。
あとは真人が疎開してきた際にも、お土産のお肉の缶詰やお砂糖(戦時中だとレアそう)を奪い合うおばさんたちの姿がありました。
これらからも、現実世界が憎しみや欲望に溢れている汚い世界だということが言いたいんだと思います。
しかし、そんななかでも真人は大叔父の後継ぎとして綺麗な世界を作らず、元の世界に戻ることを決断します。
真人は自分が後継ぎに相応しくないと思っていた面もあるかもしれませんが、実はまだ現実世界がそこまでオワコンなわけではなく、救いようはあるんじゃないと感じていたのだと思います。
コロナや経済不調をはじめとしてネガティブな雰囲気が漂う日本の世の中ですが、そこで現代に生きる人たちに対する激励のメッセージが込められていたのかもしれません。
真っ直ぐ生きるということの大切さ
こちらは原作との関連性が少しある部分だと思います。
まず、最初はみんな嘘から始まります。
青鷺に対しては「青鷺はみんな嘘をついている」という発言がなされていますし、真人を異世界に連れ込むために偽物の母の遺体を作って騙します。また、真人自身も「この頭の傷は自分で転んだんだ」と真人がいじめを悟られないために嘘をつくところがありました。
ただ最後は青鷺と和解したり、真人も「この傷は自分でつけました」といった発言をしたことから、少なくとも青鷺と真人からはねじ曲がった世界の中で真っ直ぐ生きていこうという意思を感じました。
青鷺自身も、「綺麗な青鷺」と「醜い男の中身」という二面性を持っています。最初は青鷺の姿として(偽りの姿)登場しましたが、だんだんと後半に向かって空を飛ぶときでさえ男の姿で過ごすようになります。
こちらはSNSでキラキラした面だけを載せたり、Vtuberになったり整形によって大幅に見た目を変えることができる、現代人の「本当の自分と理想の自分」という狭間に閉じ込められた苦悩を表現しているのではないかと思いました。
虚偽や理想の自分に無理やり人格を近づけたり嘘をつくのではなく、ありのままの自分で真っ直ぐ生きていればそれでいいんだよ、というメッセージなのかもしれません。
また、原作では友達を裏切ってしまったことをなかなか謝りに行けずに苦悩するコペル君の場面がメインとなっていますが、最後はごめんと謝ることで解決しました。どちらの主人公からもこれからは真っ直ぐ生きていこうという意思が読み取れるので、少しだけ共通点が見つかった気がします。
原作との関連性
真っ直ぐ生きるということ以外での原作との関連性で言うと、友情の美しさについても描かれているのではないかと思います。
こちらは原作の「君たちはどう生きるか」の主題ともいえる部分だと思います。青鷺は最初は真人のことを「生意気なやつ」と表現していましたが、最終的には「あばよ、友達」という発言に変わっていました。いがみ合っていた二人が仲良くなる、友達になっていく過程が描かれています。
映画版のタイトルは「The Boy and the Heron」となっていて、CMの絵だけを見ると男の子と青鷺の友情の話なのかな?と思ってしまいます。私としては「君たちはどう生きるか」という原作のタイトルとの内容の相似に違和感を覚えたわけです。
実際に仲の悪かった二人が友達になっていく過程が描かれていますが、私はこれが宮崎監督が映画で一番主張したかったことではないと思っています。最後にちょろっと出てくるだけなので、主題ではない気がします。
ただそれだと流石に原作に対しての関連性がないだろうとのことで、映画版のタイトルはこのようにして、無理やり友情の話でもありますよ~という主張を作っているんじゃないかという気がしなくもありません。
実際、関連性と言えば作中で真人が「君たちはどう生きるか」という小説をたまたま見かけて手に取るシーンくらいしかありません。とにかく、原作版の「君たちはどう生きるか」とは内容的な関わりは私はあまり感じませんでした。
原作のタイトルは「友達と正直に付き合っていく(真っ直ぐ生きる)中で、君たちはどう生きるか」という意味で、映画は「この汚い世界で、君たちはどう生きるか」という感じのニュアンスで、タイトルこそ同じではあるものの別作品だと思いました。
別の視点での主題
あとは夏子に最初は心を開いていなかった真人ですが、ストーリー後半に向かっていくにつれてだんだんお母さんとしての感覚に近づいていったという、一種の親子愛のようなものも感じました。夏子母さんと呼ぶシーンもあります。
真人は母の最期を看取ることもできず、鷺に「母はこっちだ」と言われるたびに興味を示していました。
また、少し不愛想なキャラクターのように描かれていまして、実際に学校でもいじめられていましたし人付き合いがあまり得意なタイプではなさそうです。真人は母や友達、誰かからの愛を欲していたのかもしれません。
見方を変えれば夏子との義母という関係性の中で、親子のギクシャクを乗り越えていくストーリーだとも見れます。
感想
めちゃくちゃ分からないという感じでもなく、私なりではありますが映画を通して宮崎監督が伝えたかったことは考察できた気がします。原作を読んだ時の感想とも照らし合わせることができたので良かったです。
友達は「インフルの時の夢を見ているようなよく分からん映画」と言っていました。確かに抽象的な映画なので、言われてみれば分からなくもないですね笑。まあ原作とは名前が同じなだけで内容としては宮崎駿ワールドが展開されているので、原作漫画や小説を読んだことがある人でも楽しめると思います。
内容とは関係ないですが、昔よりも絵に立体感が増していて、宮崎監督の作画ではあるものの現代風に近づいたなと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。